昭和43年10月28日 朝の御理解
御理解第78節
『神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫を断絶ですね、子孫を断ってしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。』
この前半の所のおかげですね、神の機感にかのうた氏子と。神の機感にかのうた氏子になりたいと、まぁ私共、だれでも、思わん者はありますまいが、そこでその為に、この、この御理解の後半のところを、ひとつよくよく分からしてもらわにゃいけないと思うんですね。後半のところ、どこから、どの辺から、頂いたらいいかというとね、この神のおかげを知らぬからというところから、ね。
神のおかげを知らぬから互い違いになってくると。互い違いになることそのことが、もう、おー不幸の始まりですわね。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続きとこう言うておられる。神の大恩を知ればと。これはどういうことかというと、言わば天地の大恩とでも申しますか、その天地の大恩を、これは信心がなくっても申しますよね。天の恩地の恩をね。これはどういうことかというと。
私はそのう、神の大恩ということは、神の働きということ。やっぱ神の大恩ということは、神の働き、天地の働きということは、天地の大恩を知るということ。天地の働きを知るということは、ですからまず持ってその、神の働きというものを知らなきゃいけん。天地の働きというものを知らなければ大恩は分からん。それをまぁ、学問的に、ときましても、神の大恩を分からんでも、天地の大恩は分かる。
神の働きは分からなくても、天地の働きというたら分かると思うんですね。天地の働きを、知りそこから天地の働きに対する、奉謝の心というかね。その働きに対して、その働きを素直に受けていくという働き。素直にそれを受けて、生活さしてもらう。いわゆる神恩奉謝の生活さしてもらうということになればですね、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができると、ね。
ここんところが、あのもう三代続くところの、もとが感じられますですね。なら今まではおかげを受けてなかっても、例えば、私なら私の時代から、私が神の大恩を知って、それから大恩に報いるところの信心生活。ね、いわゆる神恩奉謝の生活ができると、そこから、この子孫も続いてくる。そこから身代もできてくる。そこから、はぁこれは自分の代よりも次の代に、代勝りのおかげになるなということも分かってくる。
ただ何というても、皆さん一人ひとりがです、ここのおかげを頂かなければならんことが分かります。はい。それにはまず、神のおかげを知らんから、互い違いになってくると仰せられるのですから、神のおかげを、ね、私どもが分からしてもらわにゃいけん。そこでその、はぁー、おかげだな、と実感さしてもらう。おかげだなぁということを、実感さしてもらわなければ、神のおかげっていうことが分からない。
理屈の上では、天地の働きも、神の働きも、聞かしてもらや、なるほど、ね。今日なんかはこうやって、えー朝からお湿りがあってます。いわゆる天地の働きなんです。ほんと言うたら、天地の働き、そのまま天地のお恵みなんです。それが、ある人には都合がよく、ある人には、都合が悪いことになってくるのですね。天地のその働きが、困るなぁ、今日、雨が降るならばということになる、ある人には。ね。
今度ある人には、あぁ、ほんとに結構なお湿りを頂いてというおかげになってくる。ね、だからその、お湿りそのものをですね、神のおかげと知り、ね、目の前の、都合のいいとか悪いとかといったようなことを言わずに、それを神の恵みとして、なら今朝のこのお湿りを、有り難く頂くためにです、ね。
ただ、あれがその、なんというですか、ここにひとつの食物があるならば、その食物の味付け加減ひとつで、美味しくもなりゃ、美味しくもなくなってくる。命のためにもなりゃ、命を害するものにもなってくるということに、言わば、なるのじゃないでしょうかね。そして、命のために、とこう言うておられる、その命のためになって、初めておかげと。味のつけかたのよいことによって、はぁこれはおいしいなぁとこう思う。
ご神訓の中に、その食物訓がありますですね。食物は皆人の命のために、天地の神の作りあたえ給うものぞと。ね。だから、食物はではなくてね、ま、すべてのこととこう、言いたいですね。いわゆる、自分の心の糧というようなことを申しますが、もう全てが心の糧になるもの。に、心が豊かに、大きくなることのために、すべてのことがある、働きがあるのだと。今日のお湿りも、ね。
そのそのためだと分からしてもらう。ところが実際は今日今からどこ外出でもしようと思う人のためにはです、嫌なお天気であり、それこそあいにくな雨になってくるわけなんです。昨日、種でも蒔いたりね。植木を植えたりした人のためには、はぁもうちょうど、今日はおかげ頂いたということになるわけなんですよね。ですから、それはもうハッキリしてますけれども、例え自分には分が悪いようであっても。
自分には困る様な事にあってもです、その味付け加減ひとつでそのお湿りが生きてくる訳なんだ。味付け加減ひとつで、ほんとの心から有り難いとお礼を申し上げなければならないことに成って来る。そこん所の味付け加減というものを知らなければ、神のおかげを知らぬからになってくるのですよ。ちょっと理屈っぽくなりましたね。神のおかげを知るためには、それでもやっぱそこを一つ分からにゃいかんのです。
今日のお湿りが今日の日照りが、ね、神様の働きとししかもそれが、食物が命のためであるように、私どもの心の糧のために、私どもが本当の幸せになることのために、下さってあるんだと知るために、はぁやっぱりこれは美味しいなぁと言うためには、味付け加減が上手にならなければならないように、その味付け加減が難しい。私は夕べ、夕べあのここの、修行生の方たちが、共励し合う日なんです。
もう休んどりましたけれども、あるお知らせを頂きましたから、起きてまいりましてね修行生の方達の、共励をしておる所にかててもらって、その事を皆さんに今聞いてもらったんですけれども、言うならばその合楽的難儀とでも申しましょうかね、のことを頂くのです。まぁ言うならそれを禍とも言うですね。難儀禍が起きてくると。是は大変なお知らせを頂いたなぁと思うてから。
あの床の間で御祈念さして貰いよりましたら、あのう『蚊食い鳥』ということを頂いた。あの蚊を食う鳥?という。あのね蚊。昆虫の蚊です。ハエとか蚊とかと言うでしょう。蚊、蚊を、蚊を食べる鳥という意味だよ。ね。そんな鳥がおるでしょうかね、蚊食い鳥なんて言うのが。でも私が頂いたのは、確かに字で蚊食い鳥と頂いた。例えば合楽的禍、これはあの禍ということは蚊です。禍という字は「か」と読むでしょう。
その「か」「その蚊をですね」食うてしまう鳥。ね、その起きてきようとする禍をです、なくしてしまう鳥。「蚊食い鳥。」ははぁそういう信心もあるんだと。ね、言わばあの、禍を転じて福にすると言いますね、禍転じて福となるとこう申しましょう。むしろその、禍と思われるような事柄がです、福のもとになる。してみると禍はその禍一つをですね、禍に対するところの、味の付けかた加減一つで、ですねぇ。
それが福になるのですよ。言うなら、毒薬が変じて、薬になるわけなんです。そこんところの、私は加減というものが、信心の妙だとこう思うんですよね。禍を禍で受ける、毒を毒で受けたんじゃいかん。毒を薬にかえていかなきゃいけん。禍を転じて福にしていかなければならないところに、私は神のおかげを知るとか、神の大恩を知らなければそれができんのですよ。
その事を私が話しましたら、久富先生が先生実は私もね最近それをひしひしと感ずることがあるんです、とこう言われるんです。私あの知りませんでしたけれどもね、この爪の中に爪の中にあざができる時には、必ず大きな災難が起きてくるとだそうですね。自分の父親が亡くなる時が、この自分の爪の中にあざができましたっち。最近私ですいわゆる久富先生のこの爪の中に、黒いあのほしができてるんです。
それで最近親先生と一緒にお風呂に入る時に、はぁ親先生も出来てござると思うて、それが最近気になって気になってしょうがなかったと言うのですよ。私もここにこのびんさしのこれに黒くあざができている。久富先生も丁度ここの真ん中に、あざが出来ておる。私はこれを聞いてですね、久富先生がですよ確かにこれはほんなこっだと。これはどうもその私とか、親先生の上に何かが起きて来ると言った様なその予感がね。
してならんのだとこう言う。もうさそれこそ、最近私は感じよりますと言うて、久富先生が言われるんですよ。けれどもそれをね、それをだから私は神様に、久富先生いわくですね、どうぞそういう、災難が起こってきませんようにと、願い願いよりません。もしどういうことが起きてまいりましても、ね、それを元気な心で、受けさして頂く信心を頂かしておいて下さい。
いわゆる、禍を転じて福にできるだけの力を頂かして下さいと言うて、願いよりますとこう言われる。有り難いですね。けれどもここに、蚊食い鳥的なですね、おかげを頂けば、それは、な、無難ですむわけですよね。蚊を食う、禍を食うてしまう鳥ね。そこに私は、私はこの、か、変わったおかげを頂くためには変わった、やはり信心修行が、なされなきゃならんとこう思うのです。
いろいろお話をしておるうちに、ははぁ、なるほどこりゃ確かに合楽的、言うなら災難であり、難儀だなと思うことが、目の前にこう感じられるんです。だから、いかにこのことをですね、いかにこのことを信心で受けるか、いかにこのことを転じて福にするかということを、ま昨日話し合ったわけです。ま内容は申し上げられませんけれどもですね。ま話し合いました。ね。
言うならそのことも、どう味をつけるかということ。それが例えば苦いことであっても苦い物であっても、その苦い物がなんとも言えんまた味わいにの物に、言うならあ調理できるわけです。ま食べ物で言うならば。そういう調理の方法があるわけなんです。そこでこれは、そういう一つの合楽的その禍というかね、難儀に対して、私どもがそれをどう処理していくかということは。
銘々の結局信心修行が、ま待たれるわけであります。私はそのことを、神様にどんな修行をさして頂いたらよかろうかと思うて思いよったら、あの大祭の時に茶壷のお供えをするでしょう、茶壷じゃない、茶のお供えを。壷に入っとる。偉容の金紙で、こう絞って、紐でこう結んでございます。それがね、あのこう引き解けに結んである。こう引き解けにこう結んであるのが、あのう(?うつ)いっぱいに結んであるんです。
いわゆるこうもう、丸いところだけが大きくなっとる。だからこう下がっておるところがこう( ? )引けば、ポロッと解けるようなですね。そこんところがもうほとんどないぐらいに、この輪のほうを大きくして、だからそれをこう引けば、引き解けになるけれども、あの丸い方をこう引くとですね、パッとから結びになってしまうんです。ね、こう丸、引き解けになっとる。
輪のほうば大きくしていってからっさい、こう引いたら、から結びになってしまうでしょうが。ははぁ、私がいつも、いつもって言うかあの、繁雄さんに、あ、お茶を入れなさい、お茶を入れなさいとこう、まぁ、言うてるわけです。これはもう何べんも、自分からお茶を入れなさいというてお茶の上手いとこ、何べん決めたか分からんです、私も。ところがやはり、お茶が好きなもんですから、あのお茶を入れなさい、これを私は毎日のように、繰り返し言うておるわけです。
だからから結びに結んでしまうということは、これは私はお茶を、茶断ちをするということ。繁雄さんのお茶のこぼしおうな、お茶のこぼしを、私が断つことね。勿論これは、こんなこと言うたら修行にならんかもしれませんのにね、夕べ繁雄さんも一緒でしたから( ? )ですけども、だから私は、もう絶対お茶をくれんのと言わんけんに、あんたが気の効いちから合わせにゃいけんばのとこう言う。
そんならあんた何にならんたいち言うてから、言うたこっですけども。もう私は絶対、もう繁雄さんのこと( ? )言わんから、あなたの気の効きたっち言いよった先生が、はぁ、今日、今、お茶のごたると思ったときには、黙ってお茶を入れなさい。そうすると頂けるわけだからと言うて、万年のために、そんな風に、これじゃあんまり修行になりませんけれども、それだけのことではない、ますべてのことにです、ね。
そういうものを感じるのです。これはなら、あ、私、これが蚊食い、私にとっては蚊食い鳥になる。だけど、皆さんたちの上にもですね、それぞれ、やはり、蚊食い鳥的なですね、禍を食うてしまうような修行を、そこに皆さん達銘々が、思い立たしてもらわなきゃいけない。同時にそれが、これがくじ運の風はない。くじ運の禍ではない。合楽的一つの風であり、禍と言ったようなものは、こう言って一丸となって。
お互いが何かのそこに信心修行を、一つさしてもらわなきゃいけない。昨日繁雄しゃま達も、それをですね、実は私どもも今話し合ったことなんですけれども、こういう、ひとつ本気で修行さしてもらおうといったような話を、して、一切りついておるところであった。この御理解78節の、意味ということよりもです、ほんとに、子孫も続き、身代もでき、一年勝り代勝りのおかげを受けることができる。
ははぁこういうおかげを自分が頂いていきゃ、子や孫にも、そのまた次の時代にもです、これが続いていくんだなと、思わせて頂けるほどしのです、おかげを頂かなければならんために、神のおかげを知らぬからと仰るように、神のおかげを知って、互い違いにならんように信心して、いよいよ神の大恩、と言うことは、神の働き、ね、まず神の働きを知って、その働きに対する報恩の生活をさしてもらわにゃいけない。
なら、神の働きを、私どもが、大恩というところまでに、感じて、知るためにです、その神の働きそのものをです、対する味のつけ方を覚えなければならない。今日のお湿りも、これは正しく神の働きである。ところが、甲の人には、有り難いお湿りであり、乙の人には、ああ困ったお天気であり、あいにくなお天気になってくる。ね、だからそこんところをです、ね。
私のためにあいにくのお湿りだけれども、それをあいにくと言わずに、それをおかげと言えれるところまで、ね、味の付け方を覚えなければならないとこういうことを、今日は皆さんに聞いてもらった。それが禍であり、言わば禍であってもです、禍の味のつけ方(?いかん)によって、禍を転じて福にすることができるのですから。ね、毒を変じて薬にすることができるのですから。
そこんところのおかげを頂いて行く信心をです、いよいよ体得さして頂かなければならんと・・・。まぁご、これは、78節に限ったことじゃございませんでしたでしょうけれども、この78節の後半のところを頂いて、ね、これはお互いが、誰しもが願っておるところの、子孫繁盛家繁盛、しかも一年勝り代勝りのおかげを頂きたいと願うのは、ま、神のおかげを知らなければならない、神の大恩を知らなければならない。
その神の大恩、神の働きというものは全ての事がです、私どもの心の糧にならないものはないのだけれども、心を痛め、心を傷つき、ね、せっかく食物を独立するといったような、私は、ことをお互いしておるようなことは、なか、あるわけなんです。ね、ですからそこんところを、の、みんなを有り難いもの、みんなを美味しい物として、頂けれるようなおかげを、頂かなければならない。ね、そこに様々なひとつの工夫をお互い食わさなければならない。
確かに合楽的ひとつの難儀というものを、何かこうひしひし、初代親先生じゃないけど、なんかこれをを感じます。ね、ですからどうぞそれを、ね、蚊食い鳥的なね、修行を皆さんが思い立たれて、ね、ひとつ禍があってもそれを福にするだけの力または、禍がそこに、その目の前にきておっても、それを転じさせる、ね。それを動かせるだけの働き、力を頂くための信心をさせて、思い立たなきゃいけないというふうに思います。
どうぞ。